映画の再発明―いまゴダールを見直すために 堀 潤之

By Stranger Magazine
2022.09.01

「ある月並な物語から出発して、すでにつくられている映画の全体を(…)違ったやり方でつくり直す」こと―ゴダールは長篇第一作『勝手にしやがれ』(一九六〇)の目論見を、かつてこう言い表したことがある。物語はハリウッドのギャング映画のような「月並」なもので構わない。だが、それを語るやり方は、従来の映画史を十分に踏まえながらも、それとは違ったものでなければならない、というわけだ。よく知られているように、ゴダールは一九五〇年代にアンリ・ラングロワのシネマテーク・フランセーズなどで無数の映画を見て、それについて批評を書くという体験を経て映画作家となった。その過程で「ある種の映画が終わりを告げようとしている」という〈歴史の終わり〉の感覚を抱いた若き映画作家は、であれば映画のつくり手としての自分はむしろ「どんなことをしてもかまわない」のだと考えたという。伝統を単に継承するのではなく、歴史のゼロ地点に立って絶えず刷新すること。ランボーの「絶対に現代的であらねばならない」を思い起こさせるその初心をゴダールが忘れたことは一度もないと言っても過言ではない。

だとするなら、長短合わせて優に一〇〇本を超えるゴダールのフィルモグラフィーは、どこを切り取っても「映画を違ったやり方でつくり直す」試みに貫かれていると言ってもいいのだが、今回の特集で扱われる一九八〇年代から九〇年代半ばにかけてのゴダールは、そうした意欲をとりわけ強く漲らせていたように思われる。『ウイークエンド』(一九六七)を最後に一般的な商業映画の枠組みから離脱し、一九六八年の五月革命以降、匿名的なジガ・ヴェルトフ集団を結成して『東風』(一九六九)などのきわめて実験的な戦闘的映画づくりに邁進していたゴダールは、同集団が瓦解する一九七二年以降、新たな同志アンヌ゠マリ・ミエヴィルとともに地方都市グルノーブル、次いで生まれ故郷に近いスイスのロールに居を定めて、当時最先端のテクノロジーだったヴィデオを用いた映像の実験に没頭する。八〇年代ゴダールの幕開けを告げる『勝手に逃げろ/人生』(一九八〇)は、こうして半ば地下に潜って過ごしていた雌伏の十余年を経て、久方ぶりに三十五ミリの商業映画に復帰し、いわば人生の再スタートを切った記念すべき作品なのである。以後、三十五ミリの長篇劇映画とヴィデオ短篇を並行してつくり続け、畢生の大作と言ってよい四時間半におよぶ全八章のヴィデオ作品『映画史』(一九八八─九八)を完成させるまでの約二十年間が、ゴダールの長いキャリアのなかでも特に豊穣な成果を生み出した期間だったことは万人が認めるところだろう。

『勝手に逃げろ/人生』では、何と言っても、唐突に挿入される痙攣的なスローモーションの数々が、見る者に新鮮な驚きを与える。ここでは、ヴィデオによる実験を映画に応用する格好で、誰も見たことのない鮮烈な映像体験がもたらされているからだ。だが本作では、そうした目に付きやすい新機軸にも増して、一般的な物語映画において自明視されている映像と音の結びつきを大胆に解体するという、より根底的な「映画のつくり直し」が追求されていることに留意しなければならない。音楽は寸断され、冒頭で聞こえてくるオペラのアリアから、末尾で突如、道端に姿を表す楽団に至るまで、音の出どころは絶えず撹乱される(登場人物たちはたびたび「この音楽は何?」と問いかける)。中盤の教室のシーンにおけるマルグリット・デュラスの声だけによる出演が象徴するように、映像と音のトラックはそれぞれ独自の生命を保ちながら絡み合うのである。こうした解体と再接合の操作によって生まれる新たな映像/音の複合体は「ソニマージュ」と呼ばれ、『パッション』(一九八二)以降、フランソワ・ミュジーを録音技師に迎えることで(彼は『ゴダール・ソシアリスム』(二〇一〇)まで、ゴダールのかけがえのない協力者となる)、よりいっそう精緻なものとなっていく。

映像と音の通常の結びつきをラディカルに問い直すことは、おのずと物語性の再考を招く。もともと物語によって動機づけられていた映像/音をばらばらにしてしまうのだから、もはや通常の物語は語り得ない。そこで八〇年代ゴダールが編み出したのが、複数の系列をあたかも音楽のように構成゠作曲する物語形式である。『勝手に逃げろ/人生』では自分の居場所を探し求めて都会から田舎へ、あるいは田舎から都会に移動する三人の主要登場人物の系列が、『パッション』では「労働、愛、映画」という三つ巴の主題がそれぞれ緊密に撚り合わされている。この方向性での到達点は『右側に気をつけろ』(一九八七)であり、本作はゴダール自身が演じる「白痴」の映画作り、自分を異星人ではないかと疑う「男」(ジャック・ヴィルレ)の喜劇的な寸劇の数々、レ・リタ・ミツコのレコーディング風景という、相互に無関係な三つの系列が合わさっては離れていくことを通じて、滑稽さとそこはかとない悲しみ、狂騒性と沈鬱さが奇妙にも同居する前人未到の映画体験を生み出している。

複数の系列の絡み合いという論理をさらに推し進めると、断片の集積としてのコラージュという形式に行き着く。そもそも八〇年代ゴダールにあっては、処女懐胎する現代のマリアという比較的単純な物語を綴る『こんにちは、マリア』(一九八五)でさえ、およそ丁寧な脈絡の説明ぬきに、物語的状況の破片を積み重ねるという形をとっていた。コラージュの形式が最大限に活用されるのは、八〇年代初頭から企画され、一九八八年に最初の二章が披露された『映画史』を措いて他にないが、その製作途上にフィルムで撮られた『JLG/自画像』(一九九五)も、ゴダール本人が演じるJLGなる人物が自身のアトリエで他者の言葉(アラゴン、ルヴェルディ、ディドロ、ヘーゲル……)を果てしなく引用し、過去の映画作品(ロジェ・レーナルトの『最後の休暇』やニコラス・レイの『大砂塵』など)のサウンドトラックを響かせながら、物語的脈絡を欠いた断片的な思索にふけるさまを捉えたコラージュ的なエッセイ映画となっている。

物語の系列化から断片の煌めくコラージュへと至ることは、物語の放棄につながる道でもあった。だが、ゴダールは『フォーエヴァー・モーツアルト』(一九九六)で再び物語を真剣に語り始める。しかも、ミュッセの戯曲『戯れに恋はすまじ』を戦火のサラエヴォで上映しようとする哲学教師カミーユたちのエピソードに、彼女の父親でもある初老の映画監督ヴィッキーが新作『宿命のボレロ』を撮影するエピソードを接ぎ木した本作の直線的な物語は、同時に演劇、歴史、哲学、映画などをめぐる言葉が縦横無尽に引用される高密度の言葉のコラージュでもある。つまり本作では、いかにしてコラージュと物語という相容れない要素を調和させればよいのかが模索されているのだ。この方向性は、二十一世紀の新たな物語映画たる『愛の世紀』(二〇〇一)や『アワーミュージック』(二〇〇四)でさらに掘り下げられることになるだろう。

物語の系列化からコラージュの実践へ、そして両者の融合へ。二〇世紀末の二〇年間だけでもゴダールは絶えざる「映画のつくり直し」を行っている。『パッション』、『右側に気をつけろ』、『JLG/自画像』、『フォーエヴァー・モーツアルト』といった多くの映画で「映画づくり」の主題が取り上げられるのも、ゴダールが映画をつくり直す別のやり方を考え続けていることの反映にほかならない。既存の映画のあり方にとらわれずに映画を再発明し続けるゴダールの執拗な試みは、観客にも固定観念にとらわれずに「違ったやり方で」映像と音の戯れに身をさらすことを求めている。彼は『勝手にしやがれ』の時点ですでに、アイリスインやオーバーラップといった「映画のいくつかの手法」に、「今はじめて見つけ出されたところだという印象」を与えたかったと語っている。かつてよりも映画表現の幅が狭まっているかに思われる現在、私たちはゴダールを見ることで、ほとんど初めて映画を見るかのように映画を見るという、驚きと快楽にあふれた未知の視聴覚体験へと誘われるに違いない。

※『勝手にしやがれ』をめぐるゴダールの発言の引用は、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』(奥村昭夫訳、筑摩書房、一九九八年、四九五頁)による。

堀 潤之(ほり・じゅんじ/映画研究・表象文化論)
一九七六年生まれ。専門は映画研究、表象文化論。関西大学文学部教授。編著書に『映画論の冒険者たち』(共編、東京大学出版会、二〇二一年)、『越境の映画史』(共編、関西大学出版部、二〇一四年)、『ゴダール・映像・歴史』(共編、産業図書、二〇〇一年)。訳書にアンドレ・バザン『オーソン・ウェルズ』(インスクリプト、二〇一五年)、レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』(みすず書房、二〇一三年)、ジャック・ランシエール『イメージの運命』(平凡社、二〇一〇年)、コリン・マッケイブ『ゴダール伝』(みすず書房、二〇〇七年)ほか。ジャン゠リュック・ゴダール関連のDVD・BD付属冊子に多数寄稿。

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